「こころとからだの心理学」シリーズ7の
vol.3「第四世代のマインドフルネス」からの続きです。
こころとからだの心理学 vol.4
こころの周辺にある「からだ性」と「瞑想や宗教性」
宗教と聞いて、どんなイメージが湧くでしょうか。
怖いとか危ないとか、そう思う方が多いかもしれません。
私は宗教団体というものに所属したことがなく、これからもそのつもりはないのですが、生まれながらに家に仏壇と神棚が、裏庭にはお稲荷さんがまつってあって、遊ぶのは観音様の公園でした。田舎だったのもあって、地域全体がそんな感じでした。お正月には神社に行き、お盆とお彼岸にはお墓まいりをする習慣がありました。十五夜には満月に捧げ物をして、次の十三夜さんにも同じように振る舞いました。だから、私にとって宗教とは、ただの風景でしたし、季節の巡りそのものでした。
それから、都会生活をしてすっかり忘れていましたが、大人になって全国を旅する中で、ふと立ち止まって感じる隙間のような瞬間に、小さい頃と同じような感覚が蘇ってくることが多々ありました。それは郷愁とともにやってくる「大切だな。ありがたいな」という感覚です。例えば、道を歩いていて香ってくる金木犀や、圧倒されるほどの夕日のオレンジ色。自然に手を合わせたくなる朝日の神々しさ、自分を見えないところで支えてくれているものへの、お陰さまという感覚。つまり、自然への敬いであったり、未知のもの、即興性の感覚でした。
どうでしょうか。これは私が考える宗教性というもので皆さまのそれとは違うかもしれません。そして違ってよいのです。一つではないし、簡単に言葉にできるものではないのですから。
もし少しでも、瞑想や祈り、宗教性というような、あまり普段は考えたことがないものを思いを馳せてみることで、生活に奥行きが出ることがあったら、何かを共有できたようで嬉しいです。
このように、こころの分野を扱っていくと必ずと言っていいほど、からだや瞑想性、宗教性ともつながっていきます。
「こころ」という曖昧なものを、「言葉だけ・行動だけ・思考だけ」に切り取ってしまうのは、かなり限界があります。そして、それをもう多くの人は感覚的にわかっています。感覚的にわかっているけれど、明確な言葉で一般に語られていないだけではないでしょうか。
私は今、一人の日本人女性としての感覚に、心理の専門家というエッセンスを加えて「感性の一般社会化」をチャレンジしています。これまでのまとめと新しい出発としてこのコラムを書いています。これが読んでくださった方の何かの呼び水となればと。
vol.5 「日本人の特性とこれから」へ続きます。