子どもを責めたり怒ったりが苦しいのは、
自分を責めたり怒ったりするのと同じだから。
子どもを怒っているように見えて、自分に対して厳しくなっているとき。
自分の中で我慢が多い時、頑張り過ぎたとき、ふざけている子どもを見るとイライラする…
そんなことは、よくあること。
ある児童養護施設の方が
「虐待という言葉は使いたくない、エラーなんだ」
…と言っていました。
私は深く共感しました。
私も実際に虐待をしている方と何人も会ってきましたが、
自分のその行為に苦しんでいる人ばかり。
誰も極悪非道な人はいないのです。
そういう側面を経験しているだけなんだと思っています。
虐待ですら、単にエラーと呼べることもあるのです。
エラーは、次にトライしてみようと思える前向きさがある一方、
罪悪感で自分を否定することは、
罪悪感を人にも押し付けてしまうから、
親子で抜けられないトンネルに入ってしまうことがあるのです。
虐待は、母親に罪の意識を持たせることでなくなると思いますか?
何か子どもが間違い(たとえば万引きなど・・・)をしたら、反省させるために罪悪感を染み込ませて、すると再犯がなくなると思いますか?
「何て悪い子なの!
自分がどれだけ悪いことをしたのか反省しなさい!恥ずかしい!」
こんな風に、
誰かの間違いを正すために、人格すべてを否定して罪悪感という種を植える。
その種は、自己否定という土壌でどんどん育っていく。
すると、罪悪感を花開かせるような出来事を、無意識に起こしてしまう・・・
そんな仕組みがあるのです。
わかっちゃいるけど、やめられない、というやつですね。
根っこに、無意識に罪悪感の種がある以上、
やめられないのです。
さて、その連鎖を止めるために、
私たちは罪悪感を一切手放していく世代です。
何か新しく学ばなければならないことはあまりなくて、
子どもに対して
しなきゃいけないことなんて何もない。
自分の中にある罪悪感や、いろんな制限を外していくだけ。
ベクトルは、子どもに向かわなくていい。
自分に向けていくだけでいい。
そんなふうに思うのです。
そう、気づいてさえいれば、だいじょうぶ。
つねに意識的であれ。
2015年 ブログより